★1日目:命を食べる 鶏編(担当:
ジン)
楽しいアイスブレイクの後は、急に心が引き締まる。鶏の命を頂き、命を食べる。ホールアースの鶏小屋には、30羽程の鶏がいる。その中から、3羽の鶏を頂く。小屋の中の大半は雌鳥だ。基本的にハーレムを作る。群れの中に雄鳥は1羽でいい。ケンカに負けた雄鳥は自殺することもある。雌鳥だからといって平和というわけではない。いじめられ毛を抜かれる鶏もいる。また、年を取ると鶏は卵を生まなくなる。いじめられていたり、卵を生まなくなった鶏から選んでいく。卵を生まなくなった鶏を判別するには、お尻に指をあてる。指をあてるとお尻の両側に突き出た骨があるのがわかる。良く卵を生む鶏は骨と骨の間が広い。骨と骨の間に指が2本入らないようだと卵をあまり生んでいない。働きの悪い鶏から食べたれるというのは、自然といえば自然だが、過酷な世界とも思える。この時はみな、命を頂くと知りながらも、卵を生まない鶏の判別方法を聞いて、和気藹々としていた。
鶏を籠にいれ、倉庫の隣へ移動した。そこには、テーブル、エプロン、お湯と水の入ったボール、ロープ、包丁、ナイフが用意されていた。エプロンをまとい、まるで野外クッキングをするかのようであったが、鶏が籠からだされると、急激にみんなの顔が引き締まった。取り出された鶏の片足にロープを結び、鶏は逆さ吊りにされる。屠殺を行うのは初めてで、どのような方法があるのかは知らないが、逆さ吊りにするだけで、罪悪感が心の中を駆け巡る。他に方法はないのだろうか?さらに、暴れないように羽を羽交い締めにする。文字通り羽を交差させて固定する。ロープも何もいらない。羽交い締めと言う言葉があるくらいだから、昔から行われていたのだろう。
今回は、首の動脈又は、静脈を切り、出血によりショック死させる。ナイフを首筋に入れても、騒ぐ様子もなくとてもおとなしい。まるで、死を覚悟できているようにも思える。静けさも、心地良いものではない。首筋から出血しているものの、鶏に触れるとまだ体は動いており、生きている。血を出すために足から首に向けマッサージを行う。出血から何分たったのだろうか?まだ、力強い生命を感じる。生きようとしているのか?苦しんでいるのか?ついに鼓動が感じられなくなったと思うと、ピクリとも動かなかった体に痙攣がおこった。絶命の瞬間。それぞれ何を思ったのだろうか?その場にいなければ、解らないかもしれない。日本では、毎年6億〜7億羽の鶏が屠殺されている。このうちの大半がブロイラーだ。ブロイラーはふ化(40g)から約50日〜60日(2200g〜2800g)で出荷される。その生涯はは短い。屠殺については、いろいろ意見があるかと思う。
家畜動物たちの過酷な一生では、動物というより、物として扱われている家畜の実態がかかれている。また
農林水産省・統計ダイジェスト・畜産物では、家畜の様々な統計がかかれている。とても対象的だ。
絶命した鶏は、羽と片足を落とし、胸元にナイフをいれ、皮を剥いでいく。最初にナイフを入れた後は、手で皮を剥ぐことができる。こんなに簡単に剥がせるなんて、生きてるときに剥がれたりしないのだろうか?皮の内側に手を入れてみる。とても暖かい。ああ、さっきまで生きていたんだ。そんな鶏も、全ての皮と羽がなくなると、見なれた肉となる。完全に取りきれていない羽と足がちょっと生々しい。ここから、内臓を取りだし、食べれるものと食べれないものを分別していく。
まずは、背中とお腹を分離する。要所要所でナイフを使うが、手で分離することができる。魚の内臓は何度も見たことあるが、動物の内臓はほとんど見たことがない。内臓と聞いて、気持ち悪いと思う人も多いかと思う。意外にも綺麗だった。無駄がなく、芸術的だ。誰かに見せるわけでも無いのに綺麗だなんてちょっと不思議な気がする。考えてみると、美しい自然は、誰に見せるわけでもなく、誰の為でもない、ただそこにあり、人が勝手に美しいと思っているだけかもしれない。宇宙は、地球は、生命はなぜ、人に感動を与えるのか?ちょっと神秘に包まれていると思った。
羽があって、頭があって、内臓があってふっくらしていた鶏はこれだけ?と思うくらい小さくなってしまった。たったこれだけの肉を頂くために、命を頂いていたなんて。ちょっと切ない気分になった。これは、大事に食べなくてはと思う。
まんまは昔、名古屋にいたので、手羽先をよく食べた。当たり前だが、一羽から手羽先は2つしか取れない。その当時はまったく実感していなかったが、凄い数の命を頂いていたんだなぁと、今ごろになって実感した。
最終的にもも肉、胸肉、ささみを骨から取り精肉を行った。もう、本当にお肉だ。鶏がらはスープの出しに使う。レバーと砂肝はそのままお刺身にしてワサビ醤油で頂いた。まったく臭みがない。すごくおいしい。気がつくともう夕方だった。富士山は赤く染まっていた。大自然の恵みはすごい。作業の手を休め、しばしみんなで富士山を眺めた。